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これからはものを「売る」より「貸す」時代だ。リース業を検討した山下石油時代
初代社長の利一は1950年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)のガソリンスタンド「山下石油」の跡取り娘・山下冴子と結婚、店主となりました。順調に経営を行いつつ、利一は次の事業としてリース業ならびにレンタル業を検討。同時期、清水市で発足した「清水クリーニング協同組合」の代表を打診され、クリーニング業の経営を開始します。
ヤマシタの始まりは1950年。
リネンサプライ業に始まり、常に時代の先を見据えて事業を展開してきました。
これまでの歩みをご紹介します。
初代社長の利一は1950年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)のガソリンスタンド「山下石油」の跡取り娘・山下冴子と結婚、店主となりました。順調に経営を行いつつ、利一は次の事業としてリース業ならびにレンタル業を検討。同時期、清水市で発足した「清水クリーニング協同組合」の代表を打診され、クリーニング業の経営を開始します。
本格的なリネンサプライ業の開業を目指し、清水クリーニング協同組合を母体とした新会社「静岡リネンサプライ」を設立。資本金は600万円、瓦工場を居抜きで借り上げて社屋としました。東京オリンピックを翌年に控え、夢の超特急と呼ばれた東海道新幹線や首都高速道路の工事が進められるなど日本中が好景気に沸いた時代でした。
創業と同時に営業部隊は静岡県内の医療機関への営業を積極的に展開。掛布団、敷布団、枕、毛布、包布、シーツ、枕カバーなどを1セットとした「基準寝具」をリースするという契約は、医療機関にとって大きな魅力として受け止められました。契約数は急増、営業社員は配送や回収をしながら営業活動をし、利一と冴子は資金調達に奔走しました。
東京オリンピックを控えてホテルが建設ラッシュを迎えるなか、静岡リネンサプライはホテルに向けてリネンサプライを展開します。医療機関で高品質にこだわって事業展開を行っていた経緯もあり、高級ホテルから指名を受けるようにもなりました。求められる品質は医療機関とは桁違いのものでしたが、それに応えながらリネンサプライ業のリーディングカンパニーとして成長していきます。
東京都目黒区碑文谷の住宅を改装し、静岡リネンサプライの東京営業所が開設されました。東京営業所は半年後に同目黒区柿の木坂の住宅に移転し、営業所長夫婦の自宅と女性従業員の宿舎、倉庫が併設されました。当時の東京営業所は忙しさに追われつつ社員の皆で食卓を囲むなど、ひとつの家族のような雰囲気がありました。
静岡県内にある医療機関と多くの契約を結ぶも、同業他社が現れ静岡リネンサプライと競合し始めます。コスト重視で業者を選定する医療機関もありましたが、利一は安易に価格競争に加わるつもりはなく、高い付加価値を提供し続けることにより信用を得ることを選択。高品質なリネン類を揃え、顧客満足を得ることに徹しました。4月、島田工場を竣工。静岡リネンサプライの本社も同地に移転しました。総工費約1億円を投じた業界屈指の新鋭工場でした。
個人の家庭に掃除道具などをリースする日本リースキンの業務委託を開始します。共働きが増加する社会を見据えての利一の判断によるもので、代理店の整備、研修会開催、営業成績発表会などを行い、認知度向上に努めました。主にパートとして働く主婦の間で利用が拡大していきました。
甲府市に山梨リネンサプライを設立するなど事業が拡大するなか、利一は会社改革に乗り出します。「これからは介護の時代だ」「福祉でも介護でも、やはりリース・レンタル業でなければいけない」と発言。この時期、車いすや補聴器などの補装具が初めてJIS規定に認定される動きがありつつも、高齢者介護の問題は顕在化していませんでした。
高品質な商品の提供、顧客の要望への対応により信頼を獲得し、会社の規模を成長させた静岡リネンサプライ。顧客からの要望と信頼に応える形でビルメンテナンス業に参入します。ホテルや客室などのベッドメイク、部屋やロビーの清掃、給排水の保守点検や人材配備までオールラウンドにサービスを提供するリネンサプライの進化事業でした。
関東・関西への進出を果たして営業範囲が広がり、また事業の種類や収益源が多様になったことを受けて「山下リネンサプライ」へと社名変更が行われます。同年「老人日常生活用具給付等事業」に基づいて高齢者への福祉用具の提供がスタートされ、社会の目が少しずつ高齢者福祉・介護に向けられるようになります。
「ものを貸す」ことを社命とし、会社を急成長させてきた利一が次に目を向けたのが福祉用具でした。高齢者の増加を見込んでのことです。アメリカ合衆国商務省主催でアメリカホームヘルスケア市場視察旅行が実施され、静岡リネンサプライの東京営業所所長を務めていた大脇岩根が派遣されました。駅にもスロープが設置されていないなど福祉用具を使う人にはまだまだ不便だった日本。大脇はアメリカの充実ぶりに目をみはり、利一は福祉用具レンタルビジネスを構想しました。翌年、全幹部社員を集めてホームヘルスケア事業への進出に関する説明会を実施し、合意を得ました。
厚生省(当時)が「高齢者保健福祉推進10カ年戦略(ゴールドプラン)」を策定。デイサービスやショートステイの緊急整備、ホームヘルパー養成などによる在宅福祉の推進などを目指して国が動き始めました。利一は福祉用具の役割の大きさを訴える日々を送り、レンタルでの売り上げも右肩上がりに伸びていきました。
リネンサプライのみならず、福祉用具レンタルも拡大させてきた山下リネンサプライ。業務内容に合う名称を求めて1993年4月、社名を「ヤマシタコーポレーション」としました。
代表取締役が一平に交代し、同時に利一が会長に就任しました。利一社長時代から貫かれる「正しく生きる、豊かに生きる。」という企業理念は福祉用具レンタル事業にもリネンサプライ事業にも合致するものです。会社全体に浸透し、現在もヤマシタの社員の心に深く刻まれています。
2000年、公的な介護保険制度がスタートしました。同保険の給付サービスに福祉用具レンタルサービスが採用されたことは、福祉用具レンタル事業の先駆けであったヤマシタには何にも代えがたい恩恵であり、採用のため東奔西走した一平の努力が報われた形でもありました。赤字続きだった福祉用具レンタル事業は一気に黒字転換し、「リネンサプライのヤマシタ」に加え「福祉用具のヤマシタ」としても知られるようになりました。
一平の提案により、毎年10月1日が「福祉用具の日」と定められました。これは1993年10月1日に高齢者や障害者の自立支援と介助者の負担軽減を目指した「福祉用具の研究開発および普及の促進に関する法律(福祉用具法)」が施行されたことによるもので、福祉用具の存在と大切さを広めたいという一平の思いが込められています。現在も、毎年各所で福祉関連イベントが行われています。
東京都内16区を担当エリアとする福祉用具専門の洗浄・消毒を行う「東京東衛生管理センター」を開設しました。福祉用具は「清潔」「安全」であることが重要ですが、洗浄・消毒には素材ごとに手法を変える必要があり、高度な技術が求められます。長年培ってきたリネンサプライの技術と経験により「清潔」「安全」を実現し、東京東衛生管理センターはシルバーサービス振興会認定の「福祉用具の消毒工程管理認定基準」に合格しました。
この頃には、ヤマシタの福祉用具専門相談員は800人を超えていました。一平は相談員の専門性を高め、質の高いサービスを提供することを目指し、独自のシステム「ヤマシタテスト」を実施しました。このテストは社外からも受験希望者が押し寄せ、後に「福祉用具専門相談員実力ランキングテスト」に名称を変えて2015年まで実施しました。
2006年、増大する社会保障費の抑制を目指し、介護保険制度の見直しがありました。要介護度が低い人向けのレンタル給付が抑制され、在宅介護での福祉用具レンタル市場には強い逆風が吹き荒れました。市場全体が3分の2まで縮小する一方、ヤマシタには少し追い風も吹きました。この追い風とは、同年「介護サービス情報の公表制度」がスタートし、ご利用者がインターネットで介護サービスや施設を比較・検討できるようになったことです。質の高いサービスを展開してきたヤマシタには有利となる変化でした。
介護保険制度の見直しを受けて業界全体の底上げが急務であると確信した一平は2007年、「全国福祉用具専門相談員協会」(通称:ふくせん)を設立します。福祉用具個別援助計画書(福祉用具サービス計画書)の標準様式を作成し、普及と福祉用具専門相談員の質の向上に精力的に取り組みました。2010年には、一平はふくせんの理事長と兼務で福祉用具の事業者団体である日本福祉用具供給協会の理事長にも就任しています。
2011年4月、1963年創業の日商リネンサプライ株式会社(足利市)の株式を取得しました。ユニフォームラインとリネンサプライを1つの工場で運営できるノウハウを持ち、また一般工場と医療工場と2つの工場を擁する日商リネンサプライが傘下に入ることにより、ヤマシタは北関東においてさらなる強みを持つことができました。
2013年3月、創業者の利一が静岡リネンサプライ株式会社を設立して以来、創業50周年を迎えます。しかし5月、一平が交通事故により急逝。2013年7月、その3年前に入社した長男の山下和洋が3代目社長に就任しました。そしてヤマシタの新しい時代が幕を開けることとなります。
和洋は社長就任後「リバイバルプラン」(2013年)、「whYプロジェクト」(2014年)などの中期戦略や全社プロジェクトを推進し、業務改善やマネジメント強化、人事制度の構築に奔走しました。本社機能充実やガバナンス体制の強化も行っています。和洋が社長になってから毎年発表される経営スローガンはシンプルかつ連続性を持って決定され、皆の心を一つにし、日々の行動指針となっています。
老朽化が進んでいた静岡医療工場(1985年竣工)がこの年、新たに生まれ変わりました。工場も一つのショールームであるという考え方のもと「見せる工場」をコンセプトに、生産性が高く安全衛生管理が行き届いた工場を設計、省人化にも成功しました。また、静岡医療工場は排熱や空調を工夫し、働く人の負担を減らす構造となっています。従業員満足度が顧客満足度につながるという考えを反映しました。
旧千葉工場(1974年竣工)の老朽化に加え、関東地区の市場拡大を見越して2017年、千葉県酒々井町(しすいまち)にリネンサプライ工場を新築しました。大型のシーツローラーなど最新の機器を導入したことに加え、環境への負荷が少なくコストダウンにもつながる設計がなされています。静岡医療工場に続いてショールームとしての機能も果たしており、随時お客様の見学を受け入れています。
より多くの人々に選ばれる会社を目指し、企業理念体系の見直しをはじめとするブランディング強化に取り組む中、中長期的にファンを獲得しやすい社名にするため、2019年4月に「株式会社ヤマシタコーポレーション」から「株式会社ヤマシタ」へと変更しました。
2020年1月、中国最大の都市である上海市にて「山下福至(上海)健康管理有限公司」を設立。国内で培った福祉用具レンタルサービスの海外展開をスタートさせました。また、同年4月にはブティックス株式会社よりECサイト事業を譲り受け、介護・医療・健康用品に特化した全18サイトの運営を開始。今後のさらなる事業成長に向け、力を注いでいます。
介護業界全体でITやAIなどのテクノロジーを活用する動きが活発化するなか、ヤマシタは2021年2月に最先端のロボティクス技術で介護・福祉向けプロダクトを開発している株式会社abaへの出資を実施しました。また、同年6月には、AIサービス開発の株式会社エクサウィザーズと科学的介護の実践に向け、合弁会社「株式会社エクサホームケア」を設立。福祉用具提案の場で歩容解析AIアプリの活用を始めました。
長期ビジョン2030「EX→CXを強みに非連続成長へ」の達成に向け、中期経営計画2022-24にて「EXから考える」を経営スローガンに、全従業員の仕事のやりがいを向上する取り組みに注力。理念に紐づく人事制度の再構築の議論を開始したほか、人財育成の優先順位を引き上げ、特に入社後のオンボーディングに尽力しました。また、経営執行陣による現場集会(タウンホールミーティング)開催を通じて、従業員の経営方針理解からEXをさらに高める取り組みを開始しました。
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